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柴五郎 『ある明治人の記録』

 年始に「内田樹の研究室」の”柴五郎のこと”という記事を読んで、柴五郎という人物について興味を持ったので、早速いつもの図書館に『ある明治人の記録』の貸出予約を入れました。順番を待つこと約1ヵ月、最近やっと借り出して読了。
ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))
石光 真人

中央公論新社 1971-05
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 大政奉還から戊辰戦争、明治初期までの私の歴史知識は、高校の歴史教科書以外ではほとんど司馬遼太郎の小説から得たものばかりで、一部の作品(『峠』など)を除いて薩長側から描かれた歴史ばかりでした。この本には会津出身の柴五郎の少年時代(幕末から明治初期)の記録が記されており、一般には触れられる事の無い、明治維新以降のいわゆる「賊軍」の歴史を知ることができます。

 柴五郎の略歴についてはWikipediaである程度知ることができます(ほんと便利な世の中になりました)。この本に記されているのは略歴には書かれていない柴五郎の少年期(幕末から明治初期)の記録です。

 柴五郎は会津藩上級武士の五男として生まれ、10歳で戊辰戦争を経験します。戊辰戦争当時、柴五郎は親戚の住む別荘に預けられ戦乱を逃れますが、祖母・母・姉妹は官軍が会津城下に侵攻すると同時に官軍の狼藉を恐れ自害し(町人、百姓、婦女子も官軍により殺傷されていたようです)、父や兄達は官軍との戦闘で負傷、俘虜となっています。柴五郎は、当時を振り返って以下のように記しています。

 後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれど、史実を誤ること甚だしきものというべし。百姓、町民に加えたる暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざるなり。


 戊辰戦争終了後、会津藩約68万石は、下北半島の斗南藩3万石に移封されることになりますが、柴五郎は斗南藩の実収は7千石程度であったとしています。この移封のため、一部の藩士は離散し、百姓になるもの、江戸に残るもの、北海道開拓に応じるものもあったようです。柴家は下北半島に移住しますが、一族の生活は貧窮を極め、餓死寸前まで追い込まれます。

 その後、柴五郎は下北半島を脱出し、流浪の生活を経て幼年学校に入学、その後士官学校に進むことになります。柴五郎はその当時の日記に西南戦争について「真偽未だに確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めだたし、めでたし」と記しています。西南戦争では旧会津藩士の多くが政府軍として九州に出征したようで、維新後10年経っても会津藩士が薩摩藩に対して相当な恨みを抱いていたことがわかります。

 幕末、明治初期の歴史と言えば、よく薩摩・長州藩の活躍が注目されますが、「賊軍」側であった会津藩士のこのような記録を読むと、自分がいかに偏った歴史知識しか持っていないのか思い知らされます。

 この本の記録は士官学校までで終わっていますが、その後の柴五郎の事績はWikipediaにあるとおりです。柴五郎に関する書籍には『北京篭城―付北京篭城回顧録』などもあり、また図書館で借りて読んでみようと思います。
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[ 2007/02/03 23:59 ] 読書・映画・その他 | TB(0) | CM(0)

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